更新を怠っていました。まずフィードバックを受けてのもの。
新保先生の点は間違いなく聞かれるだろうと考えはしましたが何か革新的なアイデアがあるわけでもなく一度スルーしていた問題です。シェーダーやマテリアル、演出とかライディングで解決出来るかもしれないと漠然と考えてはいます。
J佐藤先生のコメントはこれ単体ではかなり唐突な話になっていますが、恐らく拡散モデルの誤学習や誤出力にフィーチャーした作品と似ているかも知れないという事だと思います。以前履修させていただいたコミュニケーション哲学の授業の内容や流れから踏まえて言うなら、”AIは最も混沌とした集合Uへのアクセスから次第に人間に出力されるべきと望まれるものだけで構成された集合Aへのアクセスに変化していくと思われるが、集合Aから集合Uへのアクセスは出来ないのか?”みたいな理解でしょうか。結局のところ誰もやりたがらないことをやりたいんでしょ?という本質が見透かされているようです。
余談ですが、「拡散モデルのことをAIと呼ぶのはおかしい」みたいな意見をどこかで目にして確かに定義的にはそうかもしれないと思いました。シード値を同じにすれば同じ画像が出てきてしまう以上結局のところ関数の域を出ないとも言えそうな気がします。その点では結局人間はAIというものに何を求めているんだろう・・・という部分が重要なのかもしれないです。定義はいくらでも変わるけど、条文などシニフィアンが示すシニフィエは変わらない可能性が高い。ここでいう定義とはシニフィアンが示すシニフィエへのポインタと言えるので、シニフィエは変化しにくいと思えます。・・・すみません書いてて何が言いたかったのか分からなくなりました。
そして大石先生の評価基準に関する指摘は正しくその通りです。ダンスムービーを作成するならば今までに発表されたダンスの中から感情表現にフィーチャーした動作の分類などを細かく行って「これこそが動作における感情です」と言えるレベルになる必要があるかもしれません。研究室の先輩が制作したとされるアニメーションは私ではちょっと見つかりませんでした。クリス・カニンガムの映像はRubber JohnnyやMonkey Drummerなどいくつか見てみました。果たしてRubber Johnnyはライティングや撮影の構図を変えて映像の気持ち悪さが払しょく可能なものなのでしょうか・・・。そこは自分の映像にも活用できる点かも知れません。
白石先生は・・・恐らくほとんど伝わってなかったですね。事実上の「展示に期待」です。ただ「作品の手法が擬人化として落ち着いていないように思う」というのが本質的に言いたいことだと思うので、そこは大石先生の評価基準の点と合わせて考慮するべき点です。
井上先生の点はその通りです。腕と足の相違点なども大きめに分割するからこそ保持される違いであるので分割の基準を考える必要があります。
高山先生の指摘については、恐らくその点が白石先生のコメントに繋がったのかもしれないと思います。機能性に主眼を置くならばやはり人間・擬人化に縛られるべきではないのかもしれないと考えつつ、この作品で審美眼以外で何か到達できるとすればそれはプロシージャル・アニメーション(リグを動かすという3DCG用語としてのアニメーション)なのではないかな、そういう考え方にたどり着けないかな・・・と考えています。現在のアニメーションはキーフレームによる四元数の球面補完や行列の線形補間で行われるわけですが、事前に設定された動作を組み合わせて新しい動作を作成することで目的的ではない動作に関してならば自動で・・・いやしかし、よほど効率的に作れないと価値として証明するのが難しいですし、そもそもそういったアプローチをした既存のものがどのような物も調べる必要がありそうで難しい所です。
また、テーマシートに載せてまだこちらに乗せられていなかった試作です。
1~3枚目は擬人化を活用したデバイスについての表現の本質を抜き出してみたもの、4枚目は現在考えていることをコラージュで作成してみたものです。とはいえ結局先行研究として載せたcyriakの作品も擬人化に主眼を置いているのかと言われると彼自身はそうではないと思いますし、これが擬人化なのかと言われると「では擬人化の根源である人間らしさとは一体?」という点を問われるのでその問いに答えられなければいけないように思います。